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占術師列伝~東洋編

​歴史に名を残した占術家たち

卑弥呼

吉備真備

安部晴明

榊原篁洲

新井白蛾

松井羅洲

真勢中洲

馬場信武

平沢隋貞

水野南北

高島嘉右衛門

飯野吉三郎

高島象山

熊崎健翁


中国の占術家

 

卑弥呼
ひみこ
(3世紀前半)

※写真はイメージです

 

大和に君臨した幻の女王

「乃ち伴に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え、年巳に長大なるも夫婿無、男弟有り、佐けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者少なく、婢千人を以て自ら持ちせむ。唯男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え居室に出入す」 魏志倭人伝より


今なお謎につつまれた邪馬台国の女王卑弥呼は、王というよりは神の声を聞くシャーマンであった。彼女は呪術に長けており、託宣をして国を治めていたのであろう。
この当時はアマテラス大神という太陽神の存在に著わされるように女性崇拝的な信仰心が人々の生活の中に根づいており、男性よりも女性の方が神に近いとされていたようである。
卑弥呼というシャーマンの登場で初めて民の心はひとつになり、大和という国は統一されたし、卑弥呼の死後男の王が立ったが国は再び荒れてしまった。現代のように森羅万象の出来事が科学的に解明されていなかった古代では、神憑り的な主税をもつ者すなわち呪術・託宣の力を有する者に畏敬と崇拝が集まり、指導的能力はともかく、長として崇められたようだ。けれど、そればかりではなく、カリスマ的な何かが卑弥呼にはあったに違いない。

彼女が歴史に登場するのは「魏志倭人伝(239年 魏に使いを送ったと記されている)」によってであるが、彼女が統一したという大和の国(邪馬台国)がどこに所在していたのか・・諸説唱えられているが・・彼女につながる物は何一つ我が国では発見されていない。
卑弥呼と神功皇后が同一人物であると唱える学者もいるが、憶測の域を出ていない。
 
とにもかくにも彼女は我が国(日本)の初めての権力を持った女王であり、初めて歴史(記録)に登場する巫女(シャーマン)=占い師で初めて国政を動かす占いを行った人物といえるかも知れない。

※鬼道=道教呪術のこと

 

吉備 真備
きびの まきび
(695~775)

 

​命がけの留学で大陸の知識を輸入したエリート

元の名を下道真備(しもつもちのまきび)。下道氏は奈良時代、吉備地方(現在の岡山県)において有力な地方豪族であった。右衛士少尉・下道圀勝の子で官位は正二位・右大臣。勲等は勲二等という公卿であり学者。717年に遣唐使として阿倍仲麻呂・玄昉らと共に唐に渡る。二度目の帰国(735年)の際、多くの書物(経書・天文歴書その他)を日本に持ち帰る。
真備の経歴を現代風にいうなれば、代々が地方政治家のエリート名門家系に生まれ、先進国に命をかけて海外留学し、博士号などの学士を習得し、たくさんの知識と文化を持ち帰った功績と元々の約束された地位から、政治の中枢に昇りつめた学者肌の政治家ってとこです。
占い師というよりは様々な学問を究めた学者で、その中に天文学があり道教があり、呪術や密教、陰陽道などに至る知識や技術をも持っていて、それを国政に利用していたというところでしょうか。(当時は占いも呪術も政治の一部でしたので)

 

安倍 晴明
あべの せいめい
(921~1005?)

 

謎に包まれた伝説の陰陽道師

今に伝わる芸能古浄瑠璃「しのたづまつりぎつね 付 あべノ晴明出生」によると、晴明の父が悪右衛門から狐を救い、恩に感じた狐が化身(葛葉姫)し、妻となり、生まれた子が晴明であると書かれている。この話ははっきりいって信じがたいが、鶴の恩返しや雪女に天女の女房など、日本にはこのような異形の女が普通の男の女房の話がよく見られる。
この手の言われは普通でない能力や容姿を持った女または異国の女(あるいは宇宙人?)を誇張して伝えた手法なのかも知れない。

ともあれこの母は、真の姿を知られた事から夫と子供の元を去るが、自分を探しに来た息子(晴明)に霊力を授けた。浄瑠璃ではこの後晴明は白道上人から法力を授けられ、天皇の病を治し、五位に叙せられ、悪右衛門と法力争いをして勝つ・・・云々、とある。
このように伝説化した晴明像は、人々が陰陽導師かつまた陰陽道そのものに抱いた妖術(呪術)と法力を使いこなし朝廷さえも操る闇の権力という印象をよく表している。

晴明は幼少の頃から賀茂忠行とその息子保憲に陰陽道と天文道を学んだ。当時の社会では学問を初めとして秘儀と称されるものは、代々それを守り伝える家にとって門外不出の家宝ともいえた。これは日本の茶道や華道、伝統芸能の世界を見れば解る。弟子入りを許された者は教授されても、それを人に公開・教える事や自分の学とすることは師に譲り渡されぬ限り不可能なのである。
陰陽道もまた賀茂の家のものであった。が、晴明は優れた能力の持ち主ゆえ忠行の目にかない、天文道を譲り渡されたのであった。こうして陰陽道は賀茂家と安部家(土御門家ともいう)の2つの家によって受け継がれてゆくことになったのである。話によると晴明は鬼を見ることが出来たという。現代でいえば、霊視の能力があったということだろう。
そして己の不幸は予見できなかったが、他人の未来や前世を見る事ができ透視能力もあったということだ。もちろん、陰陽導師、天文博士としても優れており、天の異変から数々の予言をし、朝廷(天皇の政)に重んじられた。呪術師としてもたくさんの逸話に事欠かない。

晴明は表の歴史にはその名を登場させることは無いが、浄瑠璃にまで伝説を語られ、「大鏡」「今昔物語集」など多数の歴史的資料価値を認められている書物にその名を残し、霊的能力を備えた占い師にして呪術家、そして祭神として祭られた唯一人の人物であろう。

 

榊原 篁洲 
さかきばら こうしゅう
(1656~1706)

 

新井白石と学を並べた”折衷学”の祖

本名は下山玄輔といい、明歴2年、和泉の国(現在の大阪南部)に生まれた。京都にて木下順庵に学び、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、祇園南海らと共に「木門の五先生」と称され、またここに五人を加えた十人をして「木門の十哲」とも呼ばれた。
篁洲は、経節に門戸を立てるのを好まなかったそうであり、篆刻をよくし、”折衷学”の祖として知られている。

 

新井 白蛾
あらい はくが
(1715~1792)

 

日本国易学中興の祖

新井白蛾の本名は字を謙吉、名を祐登という。正徳五年、江戸は下谷に生まれた。父方し加賀前田家の縁につながるという。菅野兼山に学び、若年にして神田に私塾を開く。が、京、大阪へ上京し、易の研究を深めた後、定住して多くの弟子を持って、「新井家流」「古易館流」ともいうべき流派を築いた。齢70を越えた時、縁有る加賀藩によって、明倫堂の学頭になった。が、在任まもない寛政四年五月、加賀藩屋敷内でその生を終えた。享年77歳であった。

 

松井 羅洲  
まつい らしゅう
(1751~1822)

 

本名は松井輝辰(暉星)、通称を甚吾郎という。宝歴元年波華?に生まれる。学識高く京都の土御門家の教授も努めた学識派。真勢中洲との交換授業によって、易占を習得した(易占を学ぶ代わりに漢字を教えたとのこと)。その真勢中洲と共にすぐれた実占例を残しており、後世の学易者に多大な影響を与えた人物。

 

真勢 中洲
ませ ちゅうしゅう
(1754~1817)

 

本名を真勢達富、通称彦右衛門。宝暦四年尾張の国に生まれた。若い頃から易に興味を持ち、新井白蛾に入門し、研究の道に入る。中年の齢に達してから浪速に移り住み、復古易経を唱え書を著わしては多くの門弟を抱え講義した。先に上げた松井羅洲もその門下の一人で、羅洲ともども秀逸の実占例と真勢流ともいうべき書を多数記している。

 

馬場 信武
はば のぶたけ

(生没年不祥 元禄から享保にかけて存在)

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本名馬場信武、別名尾田玄古ともいう。京都出身。天文、典故、兵学に造詣が深く、特に天文の世界では「天文図説」という優れた書を著している。断易や周易の書も著しているが、特に有名なのは「梅花心易掌中指南」である。

 
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平沢 随貞 
ひらさわ ずいてい

(生没年不祥 元禄から明治にかけて活躍)

 

本名平沢常知、通称左内という。下野の国に生まれ、江戸にて講釈師の弟子をしていたが、20歳すぎてから、水戸の小川養軒という人物に易を学び、易占の道に入る。
およそ50年間、町の易者として活躍し、当時の社会にして著書を3000部売り切った。門弟は千人を声、「平沢流の占い」は一世を風靡したそうである。

 

水野 南北
みずの なんぼく
(1760-1834)

 

“食は生命なり”を説き、不良少年から門弟3000人の大観相家への返信を遂げた男

それまで雑多に乱立していた人相商売を“南北相法”として集大成したことで知られる。もともとが天涯孤児の身の上であり、「悪党熊太」と呼ばれたほどの極道者だったという。要望醜く、「野人の如き卑しさ」だったとも伝えられる。

19歳の時、暴力事件を起こし、半年間の入牢生活を体験する。出所当日、大阪天満橋のたもとで占術家海常律師に出会い、その凶相から「あと一年の命」と宣告される。これをきっかけに人相学に興味を示し、合わせて食養生を研究し、運命学の研鑚を積む。その修業期間、髪結いを三年、風呂の三助を三年、火葬業者を三年続け、あらゆる階級の人間に接し、人相骨相を極めたと言う。
30歳の時、「南北相法・前編」を著して一派を確立する。
迷信を排除し、現実的で的確な人物診断から、「一万人といえども一人の過ちなし」と尊敬され、門弟3000人を数えたと言う。また、節食による運命改善の哲学を主張し、修行道場「南北庵」を設立、病弱者・貧困者を指導する。また、当時の人物としては稀なほどにボランティア思想をもち、著書の無料配布、貧困者の無料相談などを行っている。もっとも容貌の醜さは生涯あらためることが出来ず、絶大な名声を確立した後も、容易に“観相家・水野南北”と信じてもらえず、他家を訪れる際には、あらかじめ人相書を配布したのち、赴いたというエピソードがある。

のちの神道禊教教祖井上正鉄は、彼の弟子であったといわれ、幕末神道十三派のひとつとして、明治維新に大きな影響を与えた。
著書に「安心弁疑論要決」がある。

また、調査図書として、「相法極意修身録」(玉井礼一郎校注・たまいらば)、「水野南北とその思想」(田中一郎・牧野正恭共著 大阪春秋社)、「だまってすわれば」(神坂次郎・新潮社)などがある。

 

高島 嘉右衛門
たかしま かえもん
(1832~1914)

 

実業家にして高島易断の創始者

嘉右門は、天保3年江戸は京橋のとある材木商の家に生まれた。跡取り息子が病弱であるのを気にした父親は、世に名をとどろかせた占い師の水野南北を招き、息子の将来を仰いだ。嘉右門の人相を見た南北は絶句し、確信に満ちた言葉を父親に告げた。

南北によると、嘉右門の相は「万人に一人という九天九地の相」であり、「天に上れば神仏となり、地に堕ちれば地獄の王となる。両極相対する大変な運勢の持ち主。一生のうちに何度か生死の分かれ目に至るが、神仏の不思議な御加護を受けて切り抜け、必ずや災いを転じて福とするだろう」この時、嘉右門はわずか2歳。この幼子が、後に易聖(えきひじり)と呼ばれるようになる事を、南北は見抜いていたのだろうか・・

19歳で嘉右門は義兄の不始末による負債を抱えたまま二代目を継ぐことになったが、わずか3年で再建を果たし、商いの世界でその実力を発揮し始めた。しかし、大成功を遂げた後には必ずと言っていいほど、大きな挫折が待ち受けていたと言う。
29歳の時には、金銀の売買で違法を咎められ、入牢。この入牢生活の中で、嘉右門は「易経」の本を手に入れ、入牢仲間を相手に実占を重ねて名人の名をものにする。

ある日、4人の悪党が嘉右門の前に顔を揃えた。彼らは脱獄を計画しており、人望ある嘉右門に指揮をとって欲しいと頼みに来たのである。引き受ける前に易占を立てて見ると、出た卦は大凶ともいえる“水山蹇(難起こる。進退窮まったかたち)”嘉右門は計画を中止するよう彼らに忠告した。が、彼らは聞き入れない。脱獄は案の定失敗し、自暴自棄になった悪党たちは、どうせ助からないなら、と暗い牢やの中、気違いじみた殺戮を始めた。右腕を刺され、万事休す、と思った嘉右門の脳裏に易占の結果が蘇った。
“水山蹇”の蹇は手足を屈めた象という意味である。
嘉右門は闇に紛れて、道成寺笊に手を伸ばし、文字通り体を丸めてその中で息をひそめた。助かったのはただ一人。

出獄後の嘉右門は、「高島屋」という旅館を開業。実業界で躍進し、木戸孝充、大久保利通、大隈重信、伊藤博文など政府高官らと親交を持った。45歳の時、何を思い立ったか実業界から足を洗い、易占を極める道を選ぶ。

伊藤博文は嘉右門の占いを神に近いと評し、日清・日露戦争の才にも占断を求めたほどであるが、満州行きを止めるようにとの忠告に従わなかったため、その死を迎えたのであった。

 

飯野 吉三郎 
いいの きちさぶろう
(1867-1944)

 

日本のラスプーチンと言われた男

岐阜県は岩村藩士族の飯野家(上級武士)に三男として生まれる。
20歳の時に上京し、麹町に居住し呪術などを習得した後、祈祷師そして占い師として生計を立てる(何の占いを習得していたのかは不明)。
同郷であった下田歌子の紹介で、皇室や政界の人物を顧客とする。そして貞明皇后に取り入り、お抱え占い師として皇室行事や政治にも口出しすることもあった。日露戦争において「満洲軍の幕舎に参じ、勝利を開け」との神託を奉天大会戦にて行い、バルチック艦隊を迎え撃つ日時及び戦況を占い、結果日本海軍の勝利を的中させたことから名声を得ることとなった。(この戦功により月々200円が参謀本部の機密費から支給された)またこれによって儲けた金銭を満州に投資し、財産を築く。
この金で隠田(現:千駄ヶ谷)に土地を買い、新興宗教団体を設立。「隠田の生き神様」「隠田行者」と呼ばれるようになる。
だがしかし白木屋事件や旭事件などの詐欺事件に関与していたとされ、不起訴にはなったが、これがきっかけで信用と人気が急落。信者が減り、不遇な晩年を過ごすことになった。

 

高島 象山
たかしま しょうざん
(1886-1959)

 

キャッチフレーズは「だまって座ればピタリと当たる」

岡山県出身。元々の姓は牧。千代田区議としての経験も持つ。

漢学(四書五行)を学ぶうちに易学に興味を持ち、易経の研究を始めるようになる。職を求めた神戸の地で易者と出会い、九星・干支・家相方位などを修得。23歳の時に上京し、易業を開所した。
高嶋嘉右衛門の影響を受け、高嶋易断総本部の門下に入る。古来より伝わる易学のみならず「科学予言」という学説を生み出す。やがて象山易学初代宗家となり、高嶋象山学派を開祖し、髙嶋易断総本部宗家を開所。
神経症を患っていた青年により長男と共に刺傷され、翌日死亡。世間から自らの運命を占えなかったと批判されることになった。

 

熊崎健翁
くまざき けんおう
(1882-1961)

 

姓名判断を一般に流通させた元新聞記者

本名:健一郎。出身は岐阜県。熊﨑式姓名学の創始者。教員を務めた後、中京新聞社に入社。その後も三重成功新聞、伊勢新聞、大阪新報、時事新報などでジャーナリスト(記者)として活躍し、熊﨑式速記を発表。
1928年東京・大森に「五聖閣」という総合運命鑑定所を設立。ジャーナリスト時代から研究していた易学の理論を核として、姓名による吉凶禍福を鑑定する「熊﨑式姓名学」を考案。「主婦之友」において発表し公表を博し、この理論が一般に広く浸透することとなり、日本における姓名判断の普及に大きく貢献することとなった。
その著書、知識は現代でも多くの占術家の手本書として広く流通している。

 

中国の有名占術家

 

歴史上の、という点でいえば、”五行相勝説”を打ち出した鄒衒(すうえん)や、三国志で有名な諸葛武僚(孔明)「滴天髄」を著した劉伯温(りゅうはくおん)、「梅花心易」の創始者として知られる邵康節(しょうこうせつ)、「柳荘相法」をあみ出した袁柳荘(えんりゅうそう)、「測字秘牒」を著した程省などがいる。

近代から現代に至る占術家としては、「命理探原」などで知られる遠樹珊、後進の指導に熱心だった緯千里、白恵文、紫微斗数の白石山人、推命に新時代を築いた李居璋など。

 

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